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アメリカ ワシントンDC ナショナル・ギャラリー(国立美術館)

最終更新: 2020年12月28日


こちらは、「ダ・ヴィンチ」を初めてとするイタリア美術、13~20世紀のヨーロッパ、アメリカ美術のコレクションが充実する世界的に有名な美術館の1つ「ナショナル・ギャラリー(国立美術館)」です!

「スミソニアン」の博物館群の中にあるため、「スミソニアン協会」の1つと思われがちですが、運営は全く別とのこと。

「スミソニアン博物館群」同様、無料で鑑賞できますが、創設者「アンドリュー」氏の『誰でも入れる美術館を…。』との思いから開館以降実現しているものなのです。

巨大な美術館ですので、全部回ろうとすると半日以上は必要となり、好きな方は1日割いても足りないかもしれません。

ナショナル・ギャラリー:基本情報

〖歴史・概要〗

「ナショナル・ギャラリー」はピッツバーグ出身の金融業者で美術品の収集家、そして3代に渡る大統領の下で財務長官を務めた「アンドリュー・W・メロン」氏からの寄贈を受ける形で、1937年に上下両院の合同委員会により建設が決定しました。

「メロン教育慈善団」からの基金を元に美術館の建設が始まり、1941年3月17日に「フランクリン・D・ルーズベルト大統領」が引き渡しを受けオープン。

その後、世界中の多くの個人の美術品収集から美術品が寄贈されるようになり、13世紀から現代までの絵画や彫刻など西洋美術を中心としたコレクションの総数はおよそ12万点にものぼり、その数は個人からの寄贈などで毎年増え続けていると言います。この作品群を無料で楽しめるのだから驚きです!

自由に写真も撮影できますし、絵画のすぐ近くまで行って間近に見ることができるのは自由の国アメリカらしいと言う感じです。また、画家さんがたまに美術館にやって来て、自分のお気に入りの絵画の前で模写をしている姿もよく見かけますよ。


〖住所〗

Constitution Ave. NW, Washington, DC 20565

〖電話番号〗

+12027374215

〖アクセス〗

最寄り駅: Archives Station(アーカイブス駅)

※メトロ地下鉄の「イエローライン」・「グリーンライン」の2本が通っています。「アーカイブス駅」から「ナショナル・ギャラリー」までは、徒歩5分程度かかります。

DC Metro 公式サイト:https://www.wmata.com/

路線図:https://www.wmata.com/rider-guide/new-riders/upload/pocket-guide-English.pdf


〖入場料金〗

無料

〖営業時間〗

月曜日〜土曜日:10時00分〜17時00分

日曜日:11時00分〜18時00分

〖定休日/休業日〗

なし/クリスマス・正月

〖公式サイト〗

https://www.nga.gov/

【西館・東館・彫刻庭園の3つのセクション】

「ナショナル・ギャラリー」は〖西館〗〖東館〗〖彫刻庭園〗の3つのセクションに分かれています。

それぞれ年代で分かれているのでとてもわかりやすいです。

〖西館(West Building)〗

〖西館(West Building)〗には、13~19世紀ヨーロッパ絵画、彫刻、アメリカ美術など:「レオナルド・ダ・ヴィンチ」・「フェルメール」・「ルーベンス」・「モネ」・「セザンヌ」・「ゴッホ」などがあります。

〖東館(East Building)〗

〖東館(East Building)〗には、20世紀の現代美術を集めた新館:ウォーホールやマチスなどがあります。

〖彫刻庭園(Sculpture Garden)〗

「彫刻庭園(Sculpture Garden)」は、「ナショナル・ギャラリー」の〖東館(East Building)〗を出て、〖西側(West Building)〗にあります。

とても広く木々が生い茂った森の中に個性豊かな彫刻がずらりと並び、天気の良い日に散歩しながら回ると最高です。

【作品紹介】

今回は、有名な作品、日本人になじみの深い作品を中心にご紹介します。

ちなみに、館内では地図がもらえますが、地図に部屋番号が無く居場所を確認するのに苦労しますので、目当ての作品はあらかじめ、「インフォメーションセンター」で場所を聞いておくことをおすすめします!

【13〜16世紀イタリア美術】

〖レオナルド・ダ・ビンチ:「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」〗

「ナショナル・ギャラリー」のハイライトはイタリア国外では最高と言われる「イタリア美術」です。中でもヨーロッパ以外で見ることのできる唯一の「レオナルド・ダ・ビンチ」の絵画「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」は必見!

愛する男性との結婚が許されず、別の男性との結婚が決まっていた女性「ジネブラ」の切ないような悲しげな様子が絵から見て取れるように感じます。結婚後、夫はひどい財政難に陥り、「ジネブラ」自身も病気がちな生活を送ったとされています。「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」は展示場「6」にあります。

また、この絵画には裏面もあるので、裏に回ってじっくり見て下さい。

〖ボッティチェリ:「若者の肖像」〗

「ジネブラ・デ・ベンチの肖像」と同じく、展示場「6」にあるのが15世紀の「フィレンツェ」の宮廷画家の代表「ボッティチェリ」の「若者の肖像」です。

若者の優雅な手の動きがさりげなく描かれていますが、この手のしぐさは「若年層関節炎を表している」と解釈する人もいるそうです。

この他にも同じく「ボッティチェリ」の「東方三博士の礼拝(TheAdoration of the Magi)」と言う絵も必見です!

〖ラファエロ:「アルバの聖母子」〗

典型的なイタリアの田園風景を背景に聖母「マリア」と幼児「キリスト」、幼児洗礼者聖「ヨハネ」の3人が十字架を見ている様子が描かれています。

教会への献上用に「パオロ・ジョヴィオ」が「ラファエロ」に依頼した作品でしたが17世紀にナポリ駐在スペイン総督によってスペインに運ばれ、18世紀中は貴族の「アルバ家」が所有していたことから〖アルバの聖母〗と呼ばれるようになりました。

その後、1836年にロシア皇帝「ニコライ1世」が、「サンクトペテルブルク」の「エルミタージュ美術館」の前身である王室コレクションの目玉作品として購入し、更にその後100年程たってから当時のソビエト政府が財政難から売却し、アメリカ人実業家「アンドリュー・メロン家」の手に渡り、「ナショナル・ギャラリー」に落ち着くことになりました。「アルバの聖母子」は展示場「20」にあります。

【17世紀イタリア美術】

〖フェッティ:「ベロニカのベール」〗

イタリア美術の中では、「フェッティ」の「ベロニカのベール」も必ずみてもらいたい作品の1つです。

「キリスト」が処刑される時に「ベロニカ」と言う女性が渡した布で「キリスト」が顔を拭いたら後になって「キリスト」の顔が浮かび上がったと言う逸話に基づきかかれたもので、血を流し苦痛をにじませている「キリスト」が写実的に描かれています。「ベロニカのベール」は展示場「30」にあります。

【18世紀フランス美術】

〖ジャン・オノレ・フラゴナール:「本を読む少女」〗

18世紀の「ロココ美術」盛期から末期を代表するフランスの画家の「ジャン・オノレ・フラゴナール」は、1732年南フランスのカンヌに近いグラースで、皮手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれました。

1738年には家族と共にパリに出てその後、「シャルダン」や「フランソワ・ブーシェ」と言う巨匠に指事し、その努力が実り1752年20歳の時にフランスの王立絵画彫刻アカデミー主催のコンクールである「ローマ賞」1等賞を受賞しました。

イタリア留学などを経てパリに戻った後も貴族や財界の有力者との交流を持ち、個人の邸宅の装飾画の注文などで好評を得ていた「フラゴナール」が1770年に描いたのが「本を読む少女」です。「本を読む少女」は展示場「50」にあります。

ちなみに、この絵のモデルは不明とされていますが、一部の研究者からは「フラゴナール」の妻の妹で画家の弟子であり、しかも愛人でもあった「マルグリット・ジェラール」とする説も出ています。絵を見る限り良家の子女が読書に没頭している上品な絵に見えますが、実は愛人だったとしたらまたちょっと見方が違ってくる気がしますね。

また、旺盛を極めた「フラゴナール」も1789年の「フランス革命」による体制変革の後は「ロココ美術」も次第に下火になり、晩年は人々からは忘れられ、不遇な生活を送りながら貧困のうちに亡くなったと言います。

【19世紀フランス美術】

〖モネ:「ルーアン大聖堂」〗

印象派の巨匠「クロード・モネ」の後年の作品に特徴的なのは、連作という形式。「モネ」は「ルーアン大聖堂」だけでも30以上の作品を残しています。

これについて「モネ」は「大聖堂に惹かれたわけではなく、時間とともに変化していくその場の雰囲気に取り付かれたのだ」と語っているそうです。

「ナショナル・ギャラリー」に展示されている2つの「ルーアン大聖堂」もその連作の1つで、移り行く時間と光の変化によってできる、大聖堂の微妙に違った表情がカンバスに美しく表現されています。「ルーアン大聖堂」は展示場は「87」にあります。

モネ:パラソルと女性ーモネ夫人と息子〗

同じく展示場「85」には、「モネ」の作品の代表作の1つ「パラソルと女性ーモネ夫人と息子」が展示されています。

風景画の「モネ」が描く貴重な人物画で、「モネ」が当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街「アルジャントゥイユの草原」に当時の妻である「カミーユ・ドンシュー」が日傘を持って立ち、その傍らに当時5歳だった長男「ジャン」が寄添う様子をモデルに制作されています。

愛する妻と息子が振り向いている幸せいっぱいの様子をとらえた作品だとされています。しかし愛する「カミーユ」はこの絵が描かれてから4年後の32歳の若さにして亡くなりました。ちなみに、「モネ」が描いた「日傘をさす女性」の絵は3枚あるとされています。

残りの2枚はフランスの「オルセー美術館」にあり、この2枚は愛する妻「カミーユ」が亡くなってから7年後、再婚相手の連れ子がモデルをつとめましたが、逆光と風で顔はよく見えないように描かれています。

「人物も風景の一部としてとらえていたから詳細に表情を描いていない」との説がある一方で、「カミーユ」の面影を追っていた「モネ」は、顔をわざと描かなかった、もしくは描けなかったとの説もあります。

ナショナルギャラリーにある「日傘の女性」の顔立ちはわかるように描かれていますので、やはり、妻を失った後は顔を描けなかったのではとの解説に納得してしまいます。

〖モネ作品:その他〗

この他にも展示場「85」には、「ジヴェルニー」の自宅の庭にある睡蓮の池とその上に自らが浮世絵からヒントを得て作らせた日本風の太鼓橋を題材に描かれた〖蓮の池と日本の橋〗や 〖Banks of the Seine, Vetheuil〗、〖ヴェトゥイユの画家の庭〗などがあります。

〖ゴーギャン:「ファタタ・ミティ」〗

後期印象派を代表する「ポール・ゴーギャン」は、1888年に南仏アルルで「フィンセント・ファン・ゴッホ」と共同生活を試みましたが、2人は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」で共同生活はたった2ヶ月で破綻。その後、「ゴーギャン」は楽園を求めて「タヒチ」へと旅立ちました。

健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国しましたが、1895年に再び「タヒチ」に渡った後は54歳で亡くなるまで「タヒチ」へと留まり次々と作品を生み出しました。

そうした作品のうちの1つ、「タヒチ」を鮮やかに描いた「ファタタ・テ・ミティ」は「ナショナル・ギャラリー」では必見です!「ファタタ・ミティ」は展示場「83」にあります。

〖ゴーギャン作品:その他〗

その他にも同じ展示場内に「ゴーギャン」の作品、「Words of the Devil」や「自画像 (Self Portrait)」、「Delectable Waters」、「Bathers」などもあります。

〖ルノワール:「オダリスク」〗

フランス印象派を代表する巨匠「ピエール・オーギュスト・ルノワール」は仕立て屋の6男として労働階級に生まれ、決して裕福とは言えない家庭環境で育ちました。

小さい頃から絵の才能を見せていた「ルノワール」は13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いになりましたが、産業革命による機械化などで職人としての職を失ってからは画家になることを決心。1862年、21歳の頃に官立美術学校に入り、絵の勉強を本格的に開始しました。

「ナショナル・ギャラリー」に納められている「ルノワール」の作品のうちの1つ「オダリスク」は1870年のサロンに出品され入選した作品で、当時の恋人だった「リーズ・トレオ」をモデルにオスマン帝国スルタンの後宮で仕えた女官「オダリスク」を描いたものです。


当時好まれていた「オリエンタリズム(東方風)」のアプローチで制作されていて、「ナショナル・ギャラリー」でも「オリエンタリズム」のセクションの展示場「81」に展示されています。

〖ルノワール:「じょうろを持つ少女」〗

初期の頃はサロンに作品を出品しても当選や落選を繰り返し、生活が貧窮していた「ルノワール」。

そんな彼は、もっと絵が売れるようにと願って「光でいっぱいのチャーミングな女性や子供の絵を描き始めた」と言うことで、この「じょうろを持つ少女」もそうした点から、当時「ルノワール」が交流のあった「モネ」の庭で描かれたとされています。「じょうろを持つ少女」は展示場「85」にあります。

〖ルノワール:「Girl with a Hoop」〗

「ルノワール」は風景画や花の絵なども制作しましたが、「女性像」・「少女像」・「裸婦像」など代表作は人物像です。そんな「ルノワール」も1880年代前半頃から、印象派の技法に疑問を持ち始め、1881年のイタリア旅行で「ラファエッロ」らの古典に触れてからはそれが顕著となって行きました。

その頃に描かれたものは堅く冷たい色調のものが多いとされていますが、1885年の「Girl with a Hoop」もそんな時に描かれた作品です。「じょうろを持つ少女」と比べると少し暗くて堅いような表情が読み取れますよね。「Girl with a Hoop」は展示場「85」にあります。

〖ゴッホ:「ラ・ムスメ」〗

オランダ出身で後期印象派の代表的な画家である「ゴッホ」の絵は1990年に「医師ガシェの肖像」が8250万ドルの高値で売れたことなどが話題になりましたが、生前売れたのは「赤い葡萄畑」と言う作品たった1つだけ。しかも、友人の姉がたった400フランで購入してくれただけでした。

「ゴッホ」は、弟「テオ」からの毎月の仕送りで生活し、絵も売れないため生活はいつも困窮していました。「ゴーギャン」との共同生活の末、自らの耳を切る事件を起こすなど常軌を逸した行動でも知られ、何度も起きる持病の発作で精神病院にも入院し、結局37歳の若さで死亡しました。

死亡の理由はピストル自殺。ただすぐには死に切れず、2日間苦しんだ後に絶命するなど最後まで苦しみが続く人生だったとも言えるかもしれません。

※死亡の理由については近所の子供が誤って「ゴッホ」を銃で撃ってしまったのを「ゴッホ」がかばったとの説もあります。

今では「狂気の天才」とも称される「ゴッホ」ですが主要作品の多くは1886年以降にフランスに住んでいた頃、特に「アルル時代」と「サン・レミ」の精神病院での療養時代に、時には1日1作以上と言うハイペースで制作されました。

「ゴッホ」は当時の画家たちと同じように日本の浮世絵などにも影響を受け、日本の「歌川広重」の作品を油絵で「ナショナル・ギャラリー」摸写したりしています。日本に強い憧れを抱いていた「ゴッホ」は「アルル時代」の1888年7月に1週間かけて描いた「アルル」の少女のことを、日本語の「ムスメ」の名前で呼んでいました。

このためこの作品は一般的にも「ラ・ムスメ」との名で知られるようになったのです。「ゴッホ」がこの言葉を知ったのは「ピエール・ロティ」の「お菊さん」を読んだからでした。「ロティ」はその中で「ムスメ」の言葉について「Mousme(ムスメ)とは若い女の子、若い女性を意味する単語で日本語の中でも最も可愛らしい言葉の一つである。」などと説明しています。

また少女が持っている白いキョウチクトウの花は自然の生命の循環と再生に対するゴッホの思いと関係しているのではないかとの指摘もされています。「ラ・ムスメ」は展示場「83」にあります。

〖ゴッホ:「自画像」〗

モデルを雇うお金もままならなかった「ゴッホ」は、27歳で絵を始めてから自殺で死ぬ37歳までのわずか10年の創作期間の間に36にのぼる自画像を描いたことで知られています。


自画像は銅像を見ながら描いたものと見られるため、実際には左右が逆転しているとされています。「ナショナル・ギャラリー」に展示されている自画像は「サン・レミ」の精神病院での療養時代、人生の後期に描かれたものです。

〖ゴッホ作品:その他〗

この他にも展示場「83」には、「ゴッホ」が1890年に描いた以下の作品「Girl in White」・「Green Wheat Field Auvers」・「Roses」があります。

【19世紀〜20世紀フランス・イタリア美術】

〖モディリアーニ〗

「アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ」は1884年にイタリアのトスカーナ地方でユダヤ系イタリア人の家庭に生まれました。幼い頃から絵に興味を持っていた「モディリアーニ」は1898年14歳のときに風景画家の「グリエルモ・ミケーリ」のアトリエでデッサンの指導を受けるようになりました。

「モディリアーニ」は生まれつき病弱体質で、1900年には肺結核により病気療養の為、フィレンツェ、ヴェネツィアなど気候の良い土地を巡る旅おり、1901年からは故郷を離れてフィレンツェに移り住み、裸体美術学校で学んでいます。

その後1906年パリへ移住して「アカデミー・コラロッシ」に入学し、この頃から「パブロ・ピカソ」ら数々の画家と交流を結ぶようになっています。1917年には「アカデミー・コラロッシ」で画学生だった「ジャンヌ・エビュテルヌ」と知り合い同棲を始めました。

当時「モディリアーニ」は33歳で「ジャンヌ」は19歳。「モディリアーニ」はユダヤ教、「ジャンヌ」はカトリックで、結婚には周囲から反対されましたが、翌年11月29日長女「ジャンヌ」が誕生。

1919年には「ジャンヌ・エビュテルヌ」と結婚を約束していますが、生来から患っていた肺結核や貧困に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存など荒れた生活の末、1920年に結核性髄膜炎により、わずか35歳の若さで死亡しました。

結婚を約束していた「ジャンヌ」も「モディリアーニ」の死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺。この時妊娠しており、9ヶ月だったと言います。晩年期になってからようやく画家として評価され始めたと矢先に亡くなってしまった「モディリアーニ」。

「ナショナル・ギャラリー」にある絵も彼の晩年期の1916~1919年に描かれたものです。1917年に描かれた作品「青いクッションの裸婦」は展示場「81」にあります。

〖モディリアーニ作品:その他〗

この他にも、展示場「80」に亡くなる前の年の1919年描かれた作品「子供とジプシー女「Head of a Woman」と言う1910~1911年頃に石灰岩いにより作成されたモディリアーニの彫刻もメインフロアからは1階下がったグラウンドフロアの展示場「41」にあります。

このように、「ナショナル・ギャラリー」にはいくつも「モディリアーニ」の作品がありますので、お好きな方はじっくり鑑賞して行って下さい。

【16 〜17世紀スペイン美術】

〖エル・グレコ「ラオコーン」〗

スペインの三大画家の1人と称される「エル・グレコ」の作品「ラオコーン」は、 1610〜1614年頃描かれたと見られています。 これは「エル・グレコ」唯一の神話画で、包囲する「ギリシア軍」が残した木馬を市内に運ぶことに反対した神官「ラオコーン」が、木馬に向かって槍を投じたところ2匹の大蛇が現れ、「ラオコーン」の目をつぶした上で、彼の2人の息子を絞め殺したと言う神話を描いたものです。

大蛇に襲われる神官「ラオコーン」とその息子たちの、鬼気迫る様子がおどろおどろしく表現されています。絵の中には全能の神「ユピテル」と巨人の娘「レト」の子である「アポロ」と双子の妹「ディアナ」が、神官「ラオコーン」とのその22の息子達が絞め殺される様子を見ていますが、1950年代におこなった修復での洗浄によって、画家が塗り潰したと見られる逆の方向を向いた「ディアナ」の顔が現れました。

絵の中には、「ギリシャ軍が」残した木馬の絵も小さめに描かれています。ちなみに「エル・グレコ」は本名ではなくイタリア語で「ギリシャ人」を意味します。ちなみに本名は「ドメニコス・テオトコプーロス」で、「グレコ」は晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていたので彼のアイデンティティーは生まれ故郷のギリシャ・クレタ島にあったのではないかと推察されます。

【17世紀オランダ美術】

〖フェルメール:「はかりを持つ女」〗

「レンブランド」と並ぶ17世紀のオランダ美術を代表する画家の「ヨハネス・フェルメール」は寡作で知られ、現存する作品はわずか30数点ほどと言われています。そのうち3点が「ナショナル・ギャラリー」の所蔵となっています。

「はかりを持つ女 」は「フェルメール」が1662年から1663年ごろに描いた絵画と見られ、空の天秤を持って立つ若い女性とその後ろの壁には両手を広げるキリストを描いた「最後の審判」の絵画がかけられています。この女性は「フェルメール」の妻「カタリーナ」をモデルとしているとされています。「はかりを持つ女 」は展示場「50」にあります。

〖フェルメール:「赤い帽子の少女」〗

「フェルメール」作品は贋作も多く、1945年には西洋美術史上、最も有名な贋作事件のひとつ「ハンス・ファン・メーヘレン」による「エマオのキリスト」贋作事件が発覚するなどしています。

しかし、「ナショナル・ギャラリー」にある「赤い帽子の少女」は他の「フェルメール作」品に比べてサイズが小さく、「カンヴァス」でなく板に描かれているなど異色なため、「フェルメール」の真作であるかどうか疑問視する意見もあります。

この「赤い帽子の少女」はエックス線写真により、実は男性の肖像を描いた別の絵を塗りつぶして描かれたことがわかっています。

〖フェルメール:手紙を書く女〗

「手紙を書く女」は「フェルメール」が1665年〜1666年頃に描いた絵画とされています。その後の「フェルメール」ですが、1670年代になると、第3次英蘭戦争が勃発しオランダ経済も低迷。作品も全く売れなくなり大打撃を受けました。

「フェルメール」にはなんと15人の子供が生まれるなど(うち4人は夭折)大家族だったため、家族を養うために奔走しましたが首が回らなくなり、借金を残したまま42〜43歳でこの世を去っています。

死因は不明ですがその後自己破産してしまった妻の「カタリーナが裁判所に出した嘆願書の中で「夫は死ぬ数日前からほとんど口を聞かなくなり、話したかと思うと急に絶叫していました。」と綴っていて、専門家の間では極度の疲労と緊張の連続からくる心臓発作ではなかったかとの推測も出ているそうです。

〖レンブラント:「自画像」〗

17世紀のオランダを代表する画家「レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン」はスポットライトを当てたような強い光による明瞭な明暗対比などその巧みな光の捉え方から「光の魔術師」などとも呼ばれています。

「ナショナル・ギャラリー」にある「自画像」は、無一文になった頃の1659年に描かれたものです。家なども競売にかけられ、翌年の1660年にレンブラントは邸宅去って貧民街に移り住んでいます。〖レンブラント:「自画像」〗は展示場「48」にあります。

【イギリス美術】

〖ターナー:「月光の中の石炭運搬船の転覆」〗

18世紀末から19世紀のイギリスを代表する風景画家「ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー」。「ナショナル・ギャラリー」にあるのは1835年に「ターナー」が60歳頃に描いた「月光の中の石炭運搬船の転覆」です。

「ターナー」は晩年になるほど鮮やかな色彩とまばゆい光で、すべてのものが溶け込んでしまうような画風が顕著になって行きますが、この作品もそうした画風が表れています。明るい光がなんとも印象的な「月光の中の石炭運搬船の転覆 」ですが、実際には夜景を描いたものになります。

「ターナー」の作風は「モネ」など後のフランス印象派の画家たちにも大きな影響を与えたと考えられています。イギリスの誇る巨匠「ターナー」の絵は必見です!「月光の中の石炭運搬船の転覆」は展示場「57」にあります。

【ミュージアムショップ】

「ナショナル・ギャラリー」で有名作品をたっぷり堪能した後は、是非ミュージアムショップに寄ってみて下さい!〖西館:1階〗とその下のレベルのコンコースに2つあります。

お店には複製画はもちろん可愛い文房具やポストカード、ジュエリーやスカーフなど様々なお土産品が並んでいて、ミュージアムショップも時間をかけてたっぷり堪能したいところです。

【カフェ】

「ナショナル・ギャラリー」には、いくつかカフェがあり、1つはコンコースにある「ミュージアムショップ」の真横にある「カスケードカフェ」です。

ピザ・サラダバー・サンドイッチ・グリル・世界の料理・シェフのお勧めなどを注文できるフードコートになっており、セルフサービスでテーブルに座って食事をすることができます。〖営業時間〗:月曜〜土曜は午前11時〜午後3時まで、日曜日は午前11時〜午後4時まで。

同じくコンコースにある「エスプレッソ&ジェラートバー」の〖営業時間〗は月曜〜土曜の午前10時〜午後4時半、日曜は午前11時〜午後5時半まで。もう1つは〖西館:1階〗にある「ガーデンカフェ」。〖営業時間〗は月曜〜土曜までは午前11時半〜午後3時まで、日曜日は午前11時〜午後5時半まで。

また、「ナショナル・ギャラリー」から徒歩圏内の彫刻庭園「スカルプチャーガーデン」の中にある「彫刻の庭パビリオン・カフェ」もおすすめ!ガラス張りのため、目の前にある広場の噴水などを眺めながら食事ができますよ!

いかがでしたでしょうか。

「ナショナル・ギャラリー」はとにかく広い美術館ですので1日歩き回るだけでも一苦労です。どれだけ部屋を周っても一向に進んだ気がしない程です。初めて訪れる方は恐らく「まだ部屋あるの!?」と正直に思うかもしれません。

ですので、必ず地図を手にしながら回りましょう!「ナショナル・ギャラリー」を訪れれば日本では混雑必須の名画たちをゆっくり間近で鑑賞できること間違いなしです!紹介しきれなかった作品もたくさんありますので、時間の許す限り滞在してみてください。

【基本情報】

ナショナル・ギャラリー

住所:6th and Constitution Ave NW, Washington, DC 20565

電話:202-737-4215

営業時間:

月曜〜土曜:朝10時〜午後5時。

日曜:午前11時〜午後6時。

※クリスマスの12月25日とお正月の1月1日はお休み