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ハワイ オアフ島 国立太平洋記念墓地

更新日:2020年12月30日


こちらは、約47万平方メートルもある広大なクレーター内に、「第一次世界大戦」・「第二次世界大戦」・「朝鮮戦争」・「ベトナム戦争」などで戦死した戦没者とその家族、およそ53,000人らの魂が安らか眠る「国立太平洋記念墓地」です。

その形が「フルーツパンチ」などを入れるボールの形に似ていることから「パンチボール」とも呼ばれています。毎年5月の最終月曜日はメモリアルデーで、追悼式が営まれます。

ここには「第二次世界大戦」のイタリア前線で戦った日系二世だけで編成され大隊と連隊の戦死者も眠っているのです。

日本軍の真珠湾攻撃で厳しい立場になった彼らは、そんな偏見を打ち返すべく、アメリカ軍隊のなかで最も活躍し多くの勲章を受ける戦果をあげましたが、同時に隊の戦死傷者率もアメリカ軍隊の中で最も高かいものでした。

記念墓地正面には、国の歴史的建造物に指定された高さ30フィートの女神像があり、女神像へ登る階段の両側には石の厚板が並び戦没者の名前が刻まれています。

また「パンチボール」には軍人だけでなく、1986年にスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故で亡くなったハワイ出身の宇宙飛行士の「エリソン・オニヅカ」氏など4万人以上の魂が眠っています。

【歴史】

「パンチボウル」と呼ばれる「国立太平洋記念墓地」は、75,000~100,000 年前に形成されたと言われるクレーターの中にあり、「第一次世界大戦」・「第二次世界大戦」・「朝鮮戦争」・「ベトナム戦争」の戦没者とその家族、およそ53,000人が永眠している場所です。

「ダイヤモンドヘッド」よりも新しい時代の噴火でできた物で、上空からパンチボウルが撮影された写真を見てみると、火口部分が丸く窪んでいるのがよく分かります。

古来ハワイ語では「Puowaina (プオヴァイナ)」、「犠牲の丘」と呼ばれていました。

古代ハワイおいて、「カプ(戒律)」を破った者を神に捧げる生け贄として「パンチボウル」の丘の上で燃やしたことによるものです。

1962年~2012年という50年間に渡り上院議員を務めた「ダニエル・イノウエ」氏、1962年~1974年までハワイ州知事を務めた「ジョン・バーンズ」氏、1986年のスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故で亡くなった7名の宇宙飛行士の1人、ハワイ出身の「エリソン・オニヅカ」氏なども、ここに埋葬されています。

「ベトナム戦争」における「アメリカ太平洋軍」戦死者の一部も含まれています。

※「アメリカ太平洋軍」とは、太平洋地域におけるアメリカ軍すべて(アメリカ五軍)、すなわち、陸軍、海軍、空軍(第二次世界大戦後創設)、海兵隊、沿岸警備隊のことです。

この厳粛な地を訪れる人は毎年500万人以上にも及び、ハワイで最も人気の高い観光地のひとつです。

クレーターの高台から見下ろすホノルルは絶景で、毎年メモリアル デーには、ボーイスカウトがすべての墓石に生花のレイを捧げます。

「国立太平洋記念墓地」は、1976 年に「国家歴史登録財」に指定されています。

【日本人にも繋がりの深い墓地】

そしてこの墓地には、日系アメリカ人も数多く葬られており、「第二次世界大戦」をはじめとして、多くの日系人がアメリカ軍兵士として活躍しました。

また、神殿のような奥のスペースには、太平洋軍の参加した主要な作戦が大きな模式図になり展示されています。

そのほとんどが太平洋戦争の対日戦のもので、アメリカ軍の記念墓地ではありますが、日本ともつながりの深い場所です。

〖日系アメリカ人の活躍を讃える〗

丁寧に手入れされた広大な芝生に、兵士一人ひとりの名前、生年月日と死亡日、妻などの名前、短いメッセージが刻まれた板が埋め込まれています。

日本人の名前も多数あり、「太平洋戦争」当時、アメリカに移住していた多くの日系人は迫害され、枢軸国の国民で唯一強制収容所へ入れられました。

特に日系人の多かったハワイでは、日系人全てを収容所に入れてしまうとハワイの経済が成り立たなくなってしまうことから、日系二世は収容所に入れられることから免れました。

そこで、二世の人たちは彼らだけの部隊を組織することを要請し、アメリカの戦争で活躍することで、日系人の社会的地位を回復させようとしたのです。

ハワイ出身の日系二世による部隊は戦場で驚異的な活躍を示し、アメリカ軍の中で最も損害が多かった部隊となりました。

当初はヨーロッパ戦線に送られ、その後「太平洋戦線」で日本軍と交戦、彼らの活躍はアメリカ社会の中で大きな反響を呼び、戦後の日系人の地位回復に非常に大きな役割を果たしたそうです。

そして彼らの多くがこの記念墓地に眠っており、血は日本人・心はアメリカ人、そんな日本民族のもう一つの戦いの歴史を象徴する場所です。

以下は彼らの栄誉を讃えた銘板になります。

【第二次世界大戦で祖国を守るために命を捧げた、日系アメリカ兵の名誉を讃えて、我ら戦友は彼らを我らの世代の英雄と宣言する、この銘板を彼らの記憶のために捧げる〖1983年9月25日・第100歩兵大隊・第442連隊戦闘団・陸軍情報部・第1399建設工兵大隊〗】

【1944年10月、第442連隊は「自由」の文字を彼らの血で記した、ビフォンテーヌは記憶している〖1993年3月24-28日〗】

これは、ドイツ占領下のフランスの「ビフォンテーヌ」という街を、日系アメリカ人で構成された第442連隊が奪還し、その後の熾烈な反撃にも耐え抜いたことを讃えるものです。

〖日本軍との戦いの記録〗

墓地の奥には、太平洋軍の経験した大きな戦争の戦場の様子がパネルで示されており、そのパネルのほとんどが日本との戦いになります。

理由はその場に明記されているわけではないためはっきりとは分かりませんが、墓地が作られたのが1949年頃で、太平洋軍の経験した他の二つの主要な戦争である「朝鮮戦争」と「ベトナム戦争」は後から足したものと思われます。

日本との戦争が、アメリカの太平洋方面における軍隊の基礎を築いたことを伺わせる場所です。

荘厳な神殿のような作りをした内部では、パネルで太平洋戦線の経過が説明されています。

アメリカ軍の視点から、重要な戦闘が描かれています。

【開戦時の日本の領域】☝

【ミッドウェー海戦】☝

世界最初の空母同士の戦いとなった【珊瑚海海戦】☝

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