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メキシコ カンクン チチェンイッツァ遺跡

更新日:2020年12月31日


「チチェンイッツァ遺跡」とは、ユカタン半島にあるメキシコの「マヤ文明」のころの巨大遺跡です。

カンクン周辺では最も重要なマヤの遺跡で、ジャングルの中に突然現れる巨大ピラミッド「ククルカンの神殿」が遺跡の目玉スポットです。

人類の悠久の歴史も感じさせてくれる必見の観光スポットで、 遺跡好きの方はもちろん、あまり興味ない方も一見の価値ありです!

今回は、「チチェンイッツァ遺跡」の歴史・概要、入場料、アクセス方法、おすすめのツアー(最安値・高コスパ・人気No.1など)、そして「合わせていきたい超おすすめ観光スポット」についても紹介します!

チチェンイッツァ遺跡とは?】

「チチェンイッツァ遺跡」とは、「カンクン」からバスで約2時間半ほどのところにあるピラミッド型の「マヤ遺跡」です。

「ピラミッド」といっても、多くの日本人が頭に思い浮かべるようなエジプトの四角錐型のものではなく、台形で階段型になっているピラミッドです。

この巨大ピラミッドは、マヤ人にとっての最高神である「ククルカン(羽毛の生えた蛇の神)」を祀っており、遠く離れた「テオティワカン文明」や「アステカ文明」においても、この羽毛の生えた蛇は「水の神」として重要視されています。

そして遺跡の名前である「Chichén Itzá(チチェンイッツァ)」とは、ユカタン地方の語で「イッツァ人の湖畔」という意味を持ち、1988年には「ユネスコ」によって〖世界遺産〗に登録されています。

また、「カンクン」からバスで1本とアクセスも良好で、毎年多くの観光客で賑わいを魅せるため、現在では数多くのツアー会社で取り扱われるほど人気の観光スポットとして発展しました。

【歴史・特徴】

「チチェンイッアッ遺跡」は、1988年にユネスコに認められ〖世界遺産〗に登録され、それ以降「メキシコ」で最も観光客が訪れる考古学遺跡になりました。

2006年には〖新世界七不思議〗にも選ばれており、今では世界屈指の遺跡としての地位を確立しています。

「マヤ文明」の歴史は長く、紀元前3000年頃から16世紀頃まで繁栄したと推定されています。

その中でも「チチェンイッツァ遺跡」は、「マヤ文明」がもっとも栄えていた時代のひとつとして分類されている「後古典期マヤ(古典期末の9世紀頃~後古典期前半の13世紀頃までの間)」の遺跡だとされており、その広さは南北に3km・東西に1.5kmと非常に広く、栄華を極めた全盛期であったことが分かります。

純粋な「マヤ文明」が色濃く残る古典期AD700年頃に栄えた、当時の「チチェンイッツァ」を「旧チチェンイッツァ」と呼びます。

「チチェンイッツァ」とは、「イッツァの泉の入口」という意味で、この周辺に大規模な「セノーテ」などの豊富な水源があったことから、 都市の最初の入植者によって、こう命名されたようです。

大河のない「マヤ文明」にとって、当時この遺跡がいかに重要な物であったかを物語っています。

豊富な水源をもとに農業を行う必要から、雨神チャックを崇拝する、宗教的側面が当時の人々の生活に多大な影響をあたえていたことがわかり、この神の彫刻は「チチェン・イッツァ」各所で見ることができます。

しかし、「旧チチェン・イッツァ」はAD800~900年頃にはその基盤が弱体化し、「マヤ」の人々はこの宗教中心の世界観を放棄していったとされています。

そして、AD1000年頃から最盛期を迎えたのが、「新チチェン・イッツァ」と呼ばれる文明です。

当時、中央高原を支配していた「トルテカ族」と同盟を結ぶなど対外的な交流を行う国際都市であり、好戦的な「トルテカ」の影響から戦士やどくろなどのモチーフが当時の建造物にはしばしば見られます。

誉れ高い「ククルカン神殿(エル・カスティージョ)」が建造されたのもこの時期になります。13世紀以降、「チチェンイッツァ遺跡」は衰退して中心地は西の「マヤパン」に移りますが、「マヤパン」も「シウ家」の攻撃によって1441年ごろに放棄されてしまいました。

「チチェンイッツァ遺跡」がいつ滅んだのか、正確な年号などは不明です。その後、スペイン人による植民地化したものの、「セノーテ」に限っては巡礼地として機能しました。

遺跡に刻まれた「リレイフ」などから戦闘集団の部族である「トルテカ」の影響を色濃く受けていたことが分かります。

「チチェンイッツァ遺跡」は「マヤ」と「メキシコ」の歴史を理解する上で、大変重要な役割を果たしています。

代表的な「マヤ」の特色と言えば、「マヤ文明」の高度な建築技術と正確な「マヤ歴」をはじめとする【天文学】の2つ。そして、その英知が詰まった建造物が「エル・カスティーヨ」と言えるでしょう。

また、「マヤ文明」と言えば生け贄の文化ですが、生け贄の泉・生け贄の神殿・生け贄の球技などそれらを象徴する遺跡がしっかりと残っているのも「チチェンイッツァ遺跡」の特徴です。

「チチェンイッツァ遺跡」に残る建造物には隠された技術がとにかく多く、「ククルカンの降臨現象」をはじめ、「エル・カスティーヨ」の「ククルカン」の頭がついている階段の真正面に立ち、手を叩くとピラミッド上の神殿内で音が反響する現象など、当時の技術者たちは、これらを計算した上で設計していたと考えると、当時の技術がいかに発展していたのかを理解することができます。

【見どころ!】

「チチェンイッツァ遺跡」は、「旧チチェンイッツァ」と「新チチェンイッツァ」の2つのエリアに分かれているうえに、遺跡内にはみどころがたくさんあります。

限られた時間内で、どの遺跡を見るべきかかなり悩んでしまうことでしょう。

そこで、「チチェンイッツァ遺跡」の中でも「マヤ文明」の特徴を色濃く残す遺跡だけを厳選し、ご紹介させていただきます。

ポイントを押さえて見学すれば、短い時間でも魅力的な「チチェンイッツァ遺跡」と「マヤ文明」についてしっかり理解することができますよ!

〖エル・カスティーヨ〗

「チチェンイッツァ」の代表的な建造物である「エル・カスティーヨ」はマヤの最高神「ククルカン(羽を持つ蛇の姿をした農耕の神)」を祀るピラミッドです。

1辺56mの正方形をベースにした階段状で、その高さは24m・頂上の神殿部分は6mと大きく、マヤの天文学を体現するために構築されたと考えられています。

四方向にはそれぞれ91段の長い階段があり、神殿へ昇る1段を合わせると合計365段に及びます。

これは、太陽暦の1年(365日)を表しており、ピラミッドの各面は9層構造で、各層は階段を境に2層に分けられているため合計18層になり、「マヤ暦」は1年=18ヶ月だったため、1年を表していると言えるでしょう。

この太陽暦と同時に、「マヤ」の人々は1年260日の「ツォルキン暦」を併用し、365日と260日の重なる日が52年に一度訪れるのですが、マヤの人々はこの年を【災いの年】として恐れたと言われています。

「エル・カスティーヨ」北東側の階段には迫力ある表情をした「ククルカン」が構えており、それ故に「ククルカン神殿(ピラミッド)」と呼ばれることもあります。

頂上には、ヒスイの目をした赤いジャガー像とチャックモール像があるようですが、現在は登上禁止になったため直接見ることはできません。

そして、「エス・カスティーヨ」と言えば年に2回(春分・秋分の日)だけ見ることができる「ククルカンの降臨現象」でも有名で、太陽が西に傾くとピラミッド下部にある蛇の石像の頭頂部が照らし出されます。

それと同時に北東の階段側面にうねるようなジグザグ模様が浮かび上がり、その姿はまるで天から降り立つ「ククルカン」!

自然現象が創り出す神秘的な現象を見れたら、一生の思い出になること間違いなしです!

〖球戯場〗

全長168メートル幅70mの大きさを誇る、「チチェンイッツァ球技場」はこれまでに見つかった「マヤ球戯場」の中で最大だと言われています。

「球戯場」で行われていたのは、手を使わずにゴム・ボールを壁の上部に取り付けられた輪に入れるというものです。

豊作祈願の儀式とも言われていますが、一般的なスポーツと大きく違うところは、勝者か敗者どちらか一方のリーダーは首を切り落とされるという「命懸け」のゲームであったということです。

「球戯場」の壁には神聖なゲームのルールと詳細が表現された、魅力的な彫刻で溢れています。彫刻の中にはこのゲームに参加したリーダーが斬首される姿を現わすものもあり、かつてこの地で残虐なゲームが行われていたことが伺えます。

当時は「神への生贄は名誉