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メキシコ メキシコシティ トラテロルコ三文化広場

更新日:2020年12月31日


こちらは、メキシコシティの北部「トラテロルコ(Tlatelolco)地区」に位置する「三文化広場(Plaza de las Tres Culturas)」です!

その名の通り、3つの異なる歴史的文化が同じ場所で見ることができます。 16世紀スペイン征服後に建てられた「サンテアゴ教会」、アステカ時代の「トラテラルコ遺跡」、それらを取り囲むように現代的な建物が建っているので「三文化」と云われています。

近くには1960年代に造られた、ラテンアメリカ最大と言われる労働者向けの団地もあり、アステカ時代には「トラテロルコ」と呼ばれ巨大な市場があった場所です。

【歴史】

「トラテロルコ」を建設した「メシーカ人」は、1325年頃「テスココ湖」の小島に移住し、島の南側に「テノチティトラン」を築き、「テノチティトラン」から分かれた人々が島の北側に1388年交易都市「トラテロルコ」を建設したと言います。

1473年に「アステカ王国テノチティトラン第6代の王・アシャヤカトル(在位1469~1481年)」が、「トラテロルコ」最後の王を殺し、吸収したのです。アステカ時代「トラテロルコ」は、毎日数万人で賑わう「メソアメリカ」最大の商業市場として繁栄していました。

その後、「アステカ」の商業都市であった「トラテロルコ」で「クアウテモック」を指導者とした〖アステカ軍〗と〖スペイン軍・ルナン・コルテス〗が戦い、当時「テスココ湖」に浮かぶ島だった「トラテルコ」は〖スペイン軍〗によって包囲され、〖アステカ軍〗はこの場所に篭城しました。

外との接触を絶たれ、まったく水も食料も絶たれた飢餓状態で、1521年8月13日に〖アステカ軍・クアウテモック〗は敗れた場所とされています。アステカ時代の建造物はほとんど破壊され、その廃材を利用して「サンティアゴ教会」は建てられました。ちなみに、現在も「サンティアゴ教会」は使用されています。

【三つの悲劇】

〖第一の悲劇〗

最初の悲劇は、植民地時代に「アステカ人」によって、「トラテロルコ」と呼ばれたこの場所が、スペインの征服者「エルナン・コルテス」によって滅ぼされたことから始まります。

虐殺された先住民の数は40000人以上にのぼり、「アステカ人」の神殿を破壊して作られたのが、「サンティアゴ教会」です。「サンティアゴ教会」の前には、石碑が立っています。

「1521年8月13日

クアウテモクによって勇敢にも守られてきた

トラテロルコはエルナン・コルテスの手に落ちた

それは勝利でもなければ、敗北でもなかった

それはメスティーソ国民の痛ましい誕生であった

それが今日のメキシコである」

「記念碑」が示すように、植民地時代、征服者と被征服者の混血、メスティーソの誕生、それが今日のメキシコ人であり、メキシコ文化であることがわかりますね。

〖第二の悲劇〗

1968年10月2日に「第二の悲劇」は起こりました。メキシコ政府は、「メキシコシティ」開催のオリンピックの誘致のため1.5億ドルの投資をし、反乱鎮圧政策として労働組合や農民の抑圧していました。

1968年10月2日、自由と民主化を目指す学生らは政権に不信を募らせ、大規模な学生運動にまで発展してしまいます。メキシコ政府は、学生らを制圧する為に虐殺を仕組み、死者は300人以上にも及びます。

残りの学生は逮捕することで黙らせ、何事もなかったようにオリンピックは開催されたのです。その為、毎年10月2日になると、「トラテロルコの事件」を忘れるなと、メキシコでは大規模なデモが行われます。

政府による弾圧大虐殺事件は、今なお未解決で、メキシコ国民の心に大きな傷として残っているのです。

〖第三の悲劇〗

「第三の悲劇」は、1985年9月19日の「メキシコ大地震」です。朝方の大地震で、目覚めたメキシコは大惨事、欠陥住宅だけが倒壊したといわれてます。

ぼろぼろに崩れた建物と無傷の建物。「トラテロルコ三文化広場」の後ろには高層ビルが建ち、それが「三文化」の一つの象徴になります。

この高層ビルはマンションビルですが、「メキシコ大地震」の時にわずかに残った建物の1つです。1960年代メキシコは、もっとも経済発展を遂げたと言う時代であったと言われていますが、その頃に政府は建売マンションの大団地の高層ビル群を建てました。

恐らくこれらの高層ビルが欠陥住宅であったのでしょう。そして、1985年の「メキシコ大地震」で、最大の被害を出したと言われる「トラテロルコ高層マンションビル群」の多くが瓦礫となったのです。

【魅力・見どころ!】

悲しい歴史を刻んだ場所、「トラテロルコ三文化広場」でありますが、先住民の文化「アステカ」の「トラテロルコ」の遺跡は入場料無料で遺跡を回ることができるので、中まで入って是非とも見学してください!

「トラテロルコの遺構」は8つあり、「ケツァルコアトルの神殿」・「暦の神殿」・「宮殿」・「壁画の神殿」・「主神殿(Ⅱ期)」・「大台座」・「聖なる囲い地」・「北のツォンパントリ(骸骨)」で構成されています。

〖サンティアゴ教会〗

スペインの建築様式が反映されている「サンティアゴ教会」は、1600年代初期に火山岩で建立されました。

教会内は、シンプルな石造りの祭壇と古いフレスコ画の残ったしっくいの壁が印象的です。青いステンドグラスの窓から射し込む光が落ち着きあるリラックスした雰囲気を演出しています。

植民地時代の文化として、征服当時の16世紀初めの古い「サンティアゴ教会」は、拝観料取りませんので、こちら是非拝観してください。

〖博物館〗

「トラテロルコ三文化広場」のすぐ横に立つ高いビルは、昔の外務省のビルでしたが、現在は「メキシコ大学」の「文化会館」です。

この中に3つの博物館が作られたので、是非ここも見学する事をおすすめします!

1つ目の「博物館」は、1968年の「トラテロルコ事件」を扱った「博物館」です。

説明がスペイン語なのですが、写真だけでも見る事で当時の出来事を知る事ができます。

2つ目の「博物館」は、「トラテロルコ考古学博物館」です。

資料は「国立人類学博物館」のように多くはありませんが、かなり興味深い展示があります。

3つ目の「博物館」は、現代アート「BLAISTENコレクション」が展示してある「美術館」になります。

アート好きの人にはとてもおすすめで、メキシコに滞在した日本人画家「北川民治」の絵が一枚あります。この他にも、日系画家「ルイス西川」の作品もありますよ。

〖風の神・エエカトルの神殿〗

ここでは、雨と豊穣をもたらすとして「風の神・エエカトル」が崇拝されていました。

「エエカトル神」は、「太陽神」ともされたため神殿は東面して建てられています。

神殿は円形の基壇と階段の入口がある長方形のファサードで、正面の入口階段は上端が箱型で終える両端のトラスで区切られています。

頂上には風の神の「礼拝堂」があり、基壇部からは奉献物と幼児の生贄が発見されています。

これは、1454年から58年にかけての旱魃時代のものとされています。

〖宮殿〗

「宮殿」のあった建物は南面して建てられ、二重の階段内部には祭壇のある小さい中庭と両側に一つずつの寝室があります。

南西に同心円の階段状の構造物があり、浴場または便所とされています。また、南東にも小部屋があり、現在は入口の階段部と化粧漆喰の残る床部しか残っていません。

〖暦の神殿〗

「メシーカ人」は、365日の太陽暦と260日の宗教暦を併用していました。

20の日にそれぞれ神・植物・動物などの名前が与えられ、太陽暦は20日単位の18の月に分けられ、残りの5日は厄日とされました。

宗教暦は20の月で構成され、一月は13日単位で、暦の神殿とされる由来は北・南・東面に13の溝が彫られ、宗教暦の絵数字が並んでいます。

なお、絵文字から神殿が1468年に落成したことが分かっています。

〖トラテロルコの大神殿〗

「メシーカ人」の建築と文化は、「テノチティトラン」・「トラテロルコ」・「テナユカ」に残されています。

この「トラテロルコ大神殿」は、1375年から90年の間に建てられており、同時代の2都市の大神殿と同じ様式で、東に面し、両端に上端が箱型で終えるトラスで区切られた左右二つの階段をもちます。

「テノチティトランの大神殿」と同じように南に「ウィツィロポチトリ神」、北に「トラロック神」を祀っていました。

〖蒸し風呂跡〗

「蒸し風呂跡」は、1990年代初めに外務省施設建設工事のときに発見され、風呂はアドベ煉瓦で囲まれており、幾たびも熱せられて塩で包まれた石や、石炭の灰、鉢、生贄にされた人間の胎児2体が出土しています。

〖北のツォンパントリ〗

「ツォンパントリ」とは、主に戦争捕虜である生け贄の頭蓋骨を並べる神殿のことであり、神殿は西に面していました。

「ツォンパントリ」の東正面近くの地下から170体の頭蓋骨が出土し、頭蓋骨の頭頂部両側に孔が開いており、神殿の台座に一列に並べられていたと思われます。

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